こまめにコツコツ

日常や感じたことなど

私のこと その7

こんにちは、こまめです。
お久しぶりになってしまって申し訳ないです。

また続きです。



離婚して私は、自由になった。

しかしそれは私が求めていたものとは少し違っていた。
なにをしても楽しくなく、休みの日は家に引きこもり友人と遊ぶ事もなくなった。

そんな生活を続けて約2年の月日が経った頃、どうしても観たい映画の公開日が迫っていた。

その映画とは、宮崎駿監督の当時4年振りの監督作品、崖の上のポニョでした。
そして公開が始まったのだが…。

20代の男が映画館に1人でポニョを観に行くという事が恥ずかしかったので、誰かを誘おうと思ったが女の子の友人の連絡先もわからなくなっていたため、
仕方なく高校の男友達2人を強引に誘いポニョを観に行った…。

そして念願だったポニョを観られて大満足の私は家に帰りたかったが、
わざわざ呼び出しといてこのまま帰すのはさすがに気まずかったので、

友人にこの後どうする?と問いかけた。

すると、いつも優しく真面目で少し山崎まさよし似の友人が、驚愕な一言を発した。


ヘルスに行きたい…。


私は唖然とした。

ポニョを観て癒されたばかりなのに、イヤラシイ事まで望むと言うのかこの男はなんて強欲な奴だ…。

しかも私はそう言う事に興味を失っていたので行きたくなかったのだが、
話を聞いてみると、今まで風俗に行った事が無く1度行ってみたかったのだとか
彼も結婚が早かったので、もっと世の中の事を知りたかったのだろうか?

普段は真面目な彼からそんな事を言われるとは思ってなかったので、少し驚いたが彼の真っ直ぐな目を見て、NOとは言えなかった。

この選択が私の人生を大きく左右する出来事になるとは知らずに…。

そしてもう1人の友人は、不気味な笑いを浮かべて俺も行きたいと言った。

この友人はマンガで例えると、ちびまる子ちゃんに出てくる野口さんを男にしたような性格で、見た目は、ボクシング漫画のはじめの一歩の真柴ってところか?

昆虫で例えたらカマキリみたいな見た目かな?

高校1年の時あまり仲が良くなかった頃に、カッターナイフで膝のとこを切られたのは今となってはいい思い出である。

ちなみに普段は友達想いの良い奴です。
もちろん筆下ろしもしてない童貞君で彼も風俗は初体験だった。

今の彼はスキンヘッドで、遠くから見ると脱獄してきた囚人で、近くで見たら指名手配写真に載ってそうな感じですね。

そして新人さん2人を連れ知ってるお店を回ってみたがどこも満室だった。

もう諦めたかったが、真面目な友人の寂しそうな瞳が私に訴えかけてくる…。

私は彼の望みを叶えるべく、恥を忍んで会社の先輩に電話をかけ風俗店を教えてもらい、とあるお店に辿りついた。

そこはお客さんが誰もいない汚い店で、しかも個室ではなく、音楽すらかかってない、ソファとテーブルだけのオープンなフィールド、俗に言うピンサロだった。

風俗初体験の友人には荷が重いかと思ったが、友人2人はヤル気マンマンで水を得た魚のよう、さっきの寂しそうな瞳はキラキラと輝いていた。

そして私は、薄暗い部屋でどこからか聞こえてくる友人の息遣いをBGMに、野生の本能だろうか?
お相手をして頂いた女性の電話番号をゲットしていた。

その後は友人と解散して無事に帰宅。

それから数日後お相手をして頂いた女性に電話して何度か遊んだのだが、
彼女も変わった方で、風俗で働いてる理由が覚醒剤を買うためで援助交際までやってると言うではないか⁉︎

まあ、人それぞれ色々あるよね〜って感じで気にせずに遊んでいたら、ある日突然連絡がつかなくなり失踪…。

残されたのは彼女に紹介してもらった友人達で、その中の1人に水商売している女の子がいたのだが、いつからか毎晩一緒に飲みに行くようになっていた。
明るくて誰にでも気さくに話かけるタイプの子で、後に今の奥さんになる方との出会いであった。


風俗で知り合った女の子は未だ消息不明で、誰も彼女の事を詳しく知るものもいない…。
彼女は、いったい何者だったのだろう?

まあ、あの時のポニョからヘルスと言う常識では考えられない、コンボ技を繰り出した友人がいなければ、また違う人生を送っていただろう。
今の奥さんにも出会ってなかっただろうし、そしてこのブログも書いてないだろう。

全ての事が繋がって今の私がいると思うと、出会った人達に感謝しなければって思いますね。

ちょっと家庭の事情で不定期に更新すると思いますが、最後まで書きますのでよろしくお願いします。
ちなみにブログの更新がまた遅くなると思うので、理由はまた続きで書くと思います。

それでは、皆さん良いクリスマスをお過ごし下さいね。





今朝のこと

こんばんは、こまめです。

今朝のことですが、コーヒーを買いにコンビニ
に行った私は、1人の女性とすれ違った。

その人は、年齢が25才ぐらいだろうか?
スーツに白いフリルの付いたブラウスを着ていて、とても清潔感のある感じだった。

だが、白いフリルにシミが…。
朝食を食べていてソースか何か飛んだのだろうか?

そして私は、ふと考えた。
彼女は、その事に気付いているのだろうか?
私は、この事を言うべきか?

だが、彼女はレジを済まし車に乗り込み行ってしまった。

ちょっと、思い出したので書いてみた。

それにしても、白い服を着た時に限って服を汚すのはなんでだろう?

白い服は、清潔感があって好きだ。
特に、白いブラウスやシャツを着てる女性が、うっすらとブラジャーが透けていたら、なぜか3割増しに見えるから不思議だ。

だが、男性が薄手のシャツを着て乳首が透けていたら、イラッとする。

う〜ん、あの時言うべきだったのか?

私のこと その6

こんにちは、こまめです。

続きです。


彼女の家で一緒に暮らす事を決めた私は、その年の12月に入籍した。
そして就職活動をしながらアルバイトを掛け持ちする日々が始まった。

朝は6時に起きて、朝の7時からガソリンスタンドの店開けそして17時まで働いて、
18時からうどん屋さん、閉店後の片付けまでして終わるのは深夜の1時。

そして帰って来たら、毎日お父さんの説教が待っていた…。

彼女の父はアルコールで肝臓を悪くして、人工透析をしながら生活していたのだが、まともに仕事もする事が出来ず、禁止されている酒でイライラを誤魔化していた。

そこに私が来たのだから私に当たるのは当然である。

私は、睡眠時間がまともに取れない日々が続き精神的に追いやられていた。

そんな生活を続けて行く内に、私は彼女の父を恨み始め、
そして耐えきれなくなった私は、
家を出る事にした…。

探し出されるのが怖くて、実家に帰る事も出来ず、友人の家や時には公園で生活をしていた。

そして数ヶ月が過ぎた時、私の携帯にメールが届いた。

そこには彼女から、もうすぐ子供が産まれると書いてあった。

そして数時間後、私は戻る決心をした。

私が病院に駆けつけた時には、既に子供は産まれていた。

女の子だった。

そして彼女の父に謝り、許しを得て
またいつもの生活が始まった。

娘が産まれてからは、更に忙しくなったが我慢して働き続けた…。

だが我慢の限界だったのだろう
2度目の逃亡である。

今度は、幼馴染の女の子の家に行き、
同棲生活をして過ごした。

初めての浮気であった。

それからその子と別れて、また妻の実家に戻った。

また同じ生活の始まりである。

ある日、私の中でなにかが切れる音がした、
そして気がつくと彼女の父親の胸ぐらを掴んで叫んでいた。

そして、その日の夜中に彼女と子供を連れて実家に戻り、母に事情を説明して実家に住ましてもらう事にした。

それから1ヶ月ぐらいして、ボロアパートを借り3人で暮らす事に、
やっと自分の理想通りになり、これからの生活に胸を躍らせた。

だが、なかなか職が安定せずにアルバイトで生計を立てる日々だったので、
娘を保育園に預け、彼女にも働いてもらいなんとか生活をしていた。

まだ若かった私は、友人達が羨ましかった、誰にも縛られず自由に遊びたかった。

それから私は、仕事が終わっても真っ直ぐ家に帰らずに、友人と遊んだりして時間を潰す日々を繰り返し、

そして同じアルバイト先の、大学生の女の子と浮気した。

その子とはすぐに別れたが、妻は気付いていた。
だがなにも言わないのをいい事に、私はまた別の女性と浮気した。

今度は、3人の子持ちの29歳の女性だった…。

妻が実家に帰省した際に、その女性とデートをしてホテルに泊まったりもした。

そんな日々を過ごしていたある日…。
会社の飲み会の帰りに、自宅のアパートの前に見慣れない車が止まっていた。

中に乗っていたのは、妻と見知らぬ男だった。
その時、妻と目が合ったがなにも言えずに帰宅
あとから聞いた話によると、
前から妻も会社の同僚と浮気をしていたらしい

それから数ヶ月後、このままではいけないと思い浮気相手に別れを告げ、

妻にもう一度やり直そうと言った。

それからの私は、友達と遊ぶ事もせず仕事が終われば真っ直ぐ自宅に戻り、
娘の保育園のイベント事にも出席した。

だが、なかなか就職先が見つからなかった。

この頃の私は、自動車整備士にあこがれていたが、資格もなにも無い私を雇ってくれるところなどなく、
日雇いやアルバイトをして生計を立て、
休みの日には職業安定所に行き、自動車整備関係の面接を受けて過ごしていた。

そんなある日、日雇いの仕事をしていると、知り合いの整備工場が人を募集していると言う話を聞いて、
ダメ元で面接に行くとなんと受かったのである。

やっと私の願いが叶った、これで全て上手くいく。
そう思った矢先の出来事だった。

数日後、仕事から帰るとそこには、
手紙とワンカートンのタバコが置いてあり手紙には、

「実家に戻ります」

とありきたりな言葉が書いてあった。

それから数日後、自宅に離婚届が置いてあった…。

それからまた数日後、
妻に連絡が付き、なんとか会う事が出来た。
妻は、整備士の仕事もどうせ続かないと思ったらしく不安定な生活に、うんざりして離婚する事を決意したらしい、

養育費も要らないから、娘にも合わないでと言われ私はなにも言えなかった…。

今まで散々好き勝手やってきたのだから、なにを言われても仕方ない。

そうして私は離婚した。
そして、1つの誓いを立てた。


あれから10年たった…。

娘は、中学1年生どこかで元気にやっているだろう。


私の娘が、こんなダメな父親に会いに来る事はないと思うが、

もしも、娘が会いたくなった時いつでも居場所がわかるように、

私は今の仕事を辞める事なく、
そしてどんな病気や怪我をしても1日も休まないと。

その誓いは、今も守り続けてます。




この辺で終わります。
また続きを書きますね。

私のこと その5

こんにちは、こまめです。

更新が遅くなり申し訳ありません。


高校を無事に卒業してやりたい事もなかった私は、高校時代にアルバイトで鍋料理屋で働いた経験を活かして、飲食店に就職しようと決めたていた。

初めての就職活動ということで不安な気持ちを抱えながら、職業安定所で紹介された個人でお店をやられてるピザやパスタを提供するお店に面接に行ったのだが
…。

現れたのは、パンチパーマでちょびヒゲ、上下スウェットの浅黒い顔、いかにもそっち系の人‼︎

私は緊張していた事もあり、なに食わぬ顔で履歴書を渡して面接開始、すると開始して僅か3分ぐらいで、明日の朝8時から来てくれと言われ、
返事はもちろん「ハイ」これにて面接終了‼︎

こんな感じでいいのかなぁ?
と思いながらもいざ仕事を始めてみると、拘束時間は長かったものの先輩は優しく仕事にはとても満足していた。

ある1人の男がいなければ…。

そう、私の面接をした社長である。
この男は、元ヤクザで背中には、立派な入れ墨を入れ、
現役の時なにか失敗をしたのか小指がなかった。
本人は料理中に包丁で切ったと言っていたが…。

そしていつもチャゲ&飛鳥のアスカと同級生でよく遊んでいたと、本当か嘘かも分からない話ばかりしていた。

そして事件が、私は主にパスタを担当していたのですが、お客様に提供したパスタの具が半ナマだったらしくクレームの電話があり、ちょうど厨房に来ていた社長にその事を報告した。

その時だった…カッとなった社長が私に、黒い塊を投げつけてきた!!

なんとそれは、フライパン(笑)

とっさに避けて当たる事はなかったが
一歩間違えれば確実に死んでいただろう。
それからは、社長に怒られないよう気を使いながら働いていたが長続きするはずもなく退職。

その後は、友人の紹介でガソリンスタンドでアルバイトとして働き生活をしていた。

そして私が高校を卒業した同じ年の9月のこと、ある1人の女の子とお付き合いする事になった。

当時、彼女がいなかった私は友人がナンパした女の子に誰か紹介してほしいと頼んだら金髪の若い女の子を紹介してくれた。

その子は、友人がナンパした女の子の職場の同僚で16才、高校を中退して家出を繰り返し友人の家を転々としていた。

付き合えれば誰でもいっか程度に考えていた私は、特に興味があった訳でもないその女の子と付き合うことに、

そして2カ月後…。

いつものように朝から排尿行為をしていたのだが、私の股間を襲う激痛‼️
すぐに泌尿器科を受診して病名発覚。

リン病だった…。


余談だが、何故か私はこの手の話が尽きない。
彼女(修学旅行中に別れた子)とプレイ中に、ブチッという音と共に出血‼️
そっと股間を見ると裏スジを噛み切られていたり
お風呂に入ってる時に、ふと股間の玉を見てみたら、血を吸ってブクブク太ったマダニが噛み付いていたり…。

話が逸れてしまった…続きです。

彼女は、私と付き合う前に多数の男性と関係を持っていたため、何処かで病気を移されたのだろう、私は特に気にする事もなく産婦人科を受診するよう勧めた。

そして受診を終えた彼女は私にこう言った。


「妊娠してるって」


えっ?


誰が性病の検査に行って、妊娠報告される事を予想出来ただろうか…。

言葉を失った私は脳裏に他の男の子供じゃないかとも思ったが、
そこは私も『九州男児』彼女を悲しませる訳にもいかない、そして私はこう言った。

「わかった責任取るけん」


正直そろそろ彼女と別れようかとも考えていた時期だったのだが
自分の子供である可能性があったため腹をくくって、彼女に今から挨拶行くから親に電話するよう伝えた。

だが彼女が親に電話をすると「今からそっちの家に行くから戻って来い‼️」

あれ?私のプランは?

ヤバい‼︎    私の母や兄になにも言ってない、私はすぐに自宅に戻ると彼女が妊娠した事を伝えようとした…
だが母と話をする間もなく玄関のチャイムが鳴った…。

玄関のドアを開けるとそこには鬼の形相の彼女の父親がいた。

挨拶も無しに上がり込んだ彼女の父に、母はビックリしていたが怒鳴り散らす彼女の父の言葉に気づき深々と謝っていた。

そして数時間が経過して、私は彼女の父親を説得する事に成功した。

ただし条件付きだが…。

その条件は、私が彼女の家で一緒に暮らし安定した職業を探して、子供をみんなで育てると言うものだった。

私は、マスオさん?と思ったがそうするしかなかった…。

私の計画では、彼女と産まれて来る赤ちゃんと3人でせっせと働き、貧乏ながら幸せになる予定だったのに、

そして地獄の日々が幕を開けた…。





今回は、この辺でまた書きます。

私のこと その4

こんにちは、こまめです。

また続きです。


私が入学する高校は、事前に次男から聞いた情報によると、
クローズに登場するようなヤンキーだらけで抗争が絶えないなど、舐められたらお前の高校生活は終わりだから気合い入れて行けよとか…。

有名な不良映画のモデルとも言われていたから、怖くないはずがない。
(ちなみに私は、進路を決める際に先生に女の子が多いところがいいと言うふざけた理由で、商業科を選択した。)

だが現実は違っていた。
確かにヤンキーはいたのだがごく僅か、男子生徒はオタクっぽい子が多く、女子生徒は大人しそうな子や香水ふりすぎのオネエちゃんだらけ、まぁそれでも普通の高校よりは酷かったが。

そして私は、決心した。
中学時代の失敗を取り返すべく、高校では真面目にしようと。

だが、2年生になる頃には、クラスメートも半分近くやめて、仲の良かった友人達だけになった事もあり、
私は、欲望を抑えきれなくなり感情を剥き出しにしていった。

クラスメートの女の子達と一緒に花火大会を観に行ったその日に、
それまでよく喋った事もない子と2人で朝帰り、帰る頃には付き合い始めているという始末…。

その子とは長く続く事もなく、また別の女の子に移っていった。
その当時の私は、付き合えれば誰でも良かったのだろう。

もちろん勉強などする気もなく、カバンや教科書すら持って行かなくなっていた。
持ち物といえば、ポケットの中にタバコと香水そして携帯電話くらいだった。

とにかく女の子にモテる事しか考えてなかった。

だがそんな私にも遊びではなく、本当に好きと言える彼女が出来た。
その子は、大人しいグループに属する子だったのだが、普段はとても気性が荒く暴れん坊、2人でいると素直な優しい子になるという
ツンデレを絵に描いたような子だった。

その子と付き合いだしてからは、友達と上手くいっていた事もあり学校に行くのが楽しかった。

高校2年生の冬に、祖母が亡くなったのだが、悲しんでいる私を励ましてくれ、いつも側にいてくれた本当に優しい子だった。

だがそんな幸せな日々を、私は全て壊してしまった…。
私はあろうことか、修学旅行中に他の女の毒牙にかかり、彼女に別れを告げたのである。

私の高校の修学旅行は、アメリカ西海岸で初めての海外に期待を膨らませ当日を迎えた。

そこに罠があるとも知らずに…。

飛行機に乗り込み、席を確認するとクラスでも特に目立った存在の女の子が近くにいた、その子の事は特に意識した事はなかったのだが、席が近い事もあり飛行機に乗っている間ずっと喋っていた。

そして私に興味があるような事をほのめかしてきた。
どうやら前から私に好意を持っていたらしくチャンスを伺っていたらしい、
そして現地に到着すると、その子の友人を使って3人がかりで説得にかかったのである。
「今の彼女と別れて付き合いなよ」

そう言われた私は、優柔不断な性格もあり断る事が出来なかった…。
私も少しその子の事を、深く知りたくなっていたってのもあるが

そして修学旅行中に彼女に別れを告げ、新しい恋に走りだしたのであった。
(ちなみに別れた彼女は、今ではなんでも話せる友人です。)

その後、新しい彼女とは何度かデートを繰り返したが、私では満足出来なかったのかすぐに別れを告げられた…。

その彼女は、今では九州最大の歓楽街中洲を根城にして、若くて肌のキレイな男の子を捕まえ養分にして生きている…。
(本人談)

高校3年になった私は、修学旅行で別れた彼女と元に戻ることも出来ずに、バイトやコンパに明け暮れる日々を送った。

そして、私の高校生活は幕を閉じていった。

この頃になると、母の病気もかなり進行していて、手や足の指が変形して手術を繰り返し歩くのも辛いぐらいで、どうにかこうにか生活していた。


今日は、この辺で終わります。
次回にタイトルを付けるならこんな感じかな?

そして父になる。   かな?



私のこと その3

こんにちは、こまめです。

また続きを書いていきます。


中学生になると同級生の男子の興味は、やはり異性の事だった。

もちろん小学校の頃から性について勉強していた私には、同級生の質問に答えるのは造作もない事だ、
むしろ黒板に書いて昼休みに授業をしていたまでもある。

考えることはすべて異性の事で、クラスメートの女の子のスカートの中に鏡を入れて覗いたり(犯罪ですね)

隣の部室が、バレー部だったので壁に穴を開けて覗いてみたり、
部活をサボって水泳部を見学したりとやれる事はとことんやった。

そんな男がモテるはずもなく、小学生の頃から大好きだった子に告白した時には「こまめは、エロいからゴメン」と言われる始末…。

それでも異性の事が気になってたから女の子にイタズラばかり(笑)

だがそんなことがなんの役にもたたないのは明白で、すぐに学力や部活などで差がついてきていた。
(ちなみに走る事が得意だったので陸上部に入部)

この頃までは、年に数回ぐらい父から電話があっていたのだが、思春期の次男が父に一喝した。

もう電話して来るな‼︎
 迷惑なんだよ‼︎

なぜそんな事を言ったのかは覚えて無いらしいがそれから父からの連絡や養育費は、途絶えてしまった。
母も既に働けるような状態ではなかったため貯金を切り崩しながら生活をしていた。

そして中学2年になる頃には、勉強や部活も適当にしていた私から次第に友人達も離れていき、残った友人は俗に言うヤンキーしかいなくなっていた。

それからの私は、部活も辞めて悪友と共にタバコや酒そして万引きなど少しずつ悪の道へと進んで行った。

そして自分がされて嫌だったはずのイジメまで…。

だが中学3年に上がると、クラスメートも変わり自然と悪友との交流も減っていった。
(悪友は暴走族に入り学校にすら来なくなっていたのだが)

そして初めての彼女も出来た事もあって
割と充実した生活だったのだが、
中学3年にもなるとやはり進路の問題になってくる、今まで学校で習う勉強などした事もないのに…。
(通信簿は、もちろん1と2しかもらった事がない)

そこで私が出した決断は、
諦めるだった。

そして高校の入試の時には、県内でも下から数えた方が早い公立高校を専願入試する事にした、先生が真面目にしてれば大丈夫って言う言葉に期待して…。

もちろん不合格でした。

先生も呆れたのであろう、合格発表の時は笑いながら不合格と言われてしまった。

そして滑り止めに、タチの悪い噂の私立高校を受験する事に

ちょっと変わった試験で作文を事前に6ページ書いて、あとは面接のみという風変わりな入試でしたが、私の場合は必ず受かるようにと12ページもの作文を書かされ無事に合格した。
(県内でも1.2を争うほどの偏差値の低い学校だったので面接だけでも受かると後から聞かされた)

この頃には、母親の病気も少しづつ進行していて、
手や足が腫れあがり痛みを伴って通院を繰り返す日々が続いていた。

母親の痛みが酷い時は、祖母に料理を作ってもらっていた。

長男は、頭が良く寮に入って新聞配達をしながら東京の大学に行き、
次男は、高校を卒業してフラフラしていた。(ちなみに次男も私と同じ高校)

あまり良い思い出もないままに中学を卒業、そして噂のヤンキー高校に入学。


今日はこの辺でまた続きを書きますね。

私のこと その2

こんばんはこまめです。

私のことの続きを書いていこうと思います。

両親が離婚してすぐ私は、校区の関係で新しく設立された小学校に移ることになった。
その当時は、今よりも離婚に対する世間の考えが緩くはなかったため、学校を移ってすぐにイジメが始まった…。

なぜ両親が離婚したことが知れ渡ったかというと、苗字を母親の旧姓に戻したからで保護者の間で噂にでもなったのだろう
(もう少し子供にも気を使ってもらいたかった)
それと当時の私は、同級生の中でただ1人自転車に乗れなかったのもあるだろう。
(ちなみに小学校の6年生になるまで自転車に乗れなかった、それこそ飛脚かってぐらい走っていたと思う。)

イジメの内容は、それまで仲良くしていた友達にシカトされたり、上履きを隠されたり時にはエアーガンの的にされたりもした。

ただイジメは、永くは続かなかった。
持ち前の明るさもあったが、1番効果があったと思われるものは、バスフィシングとの出会いだった。

私の兄達の間で、バスフィシングが流行っていて、たまたま連れて行ってもらったのをキッカケに、私はすぐにのめり込み休みの日は1人でバスフィシングに明け暮れた。

もともと調べ物が好きな私は、学校が終わってすぐ図書館や本屋さんに行き、釣りの本を読み漁って必死に勉強をした。
当然すぐに先輩達よりも釣りに詳しくなり上手くなっていった。

それからしばらくして、先輩達の間でバスフィシングが流行ってる事を知った同級生達は、これまでの態度が嘘のようにバスフィシングのやり方を、私の事をヒーローでも見るような眼差しで聞いて来たのである。

それからはイジメも無くなり平穏な日々を過ごしていたのだが、突然母の病気が発覚した。
関節リウマチと言う病気で、手や足の腫れが続き痛みを伴い次第に変形していくと病院から診断された。
まだ子供だった私は、そんなの関係ないと思い特に気にする事もなかった。

そして1度注目を集めた快感が忘れられずやめておけば良いものを、みんなのパイオニア(先駆者)でありたいと思い始めたのである。

そこで次に目に付いた事は、なんと性についてだった…。
私には、兄がいたせいかもしれないが性の目覚めがとにかく早かった。
兄が外出してる時を見計らっては、エッチな本やアダルトビデオの隠し場所を探し出し、狂ったように性の勉強をした…

それから月日は流れ中学生になって行った。

今回は、この辺で続きはまた書きます。